本当に「魚心あれば水心」なら美徳」だろうが、「不本意に忖度を強いられている人」の苦労も確認しておきたい。
「会社の部長はやっておいて欲しいことをはっきり言わず、課長たち、その部下である私たちはは怒られないよう要望を推測してアレコレ動かされる」(福岡、50歳女性)
「親の顔色をうかがい、会社でも余計なことは言わず、結婚してからは主人の気にいらないことはしないようにしてきた。子どもが大きくなってからは子どもにさえ忖度している気がしてうんざり」(静岡、56歳女性)
ビジネスの場における忖度については議論が分かれた。
「利害が絡む事業で、相手の意図を推測して行動することはあってはならない。何が要求内容で、何が回答なのかはっきりと文書でやりとりするのが正攻法」(東京、65歳男性)という否定派はそれに対して「発注者=顧客の意向を慮ることは当然。忖度という言葉は知らなかったが、「文化」でなく絶対に必要な「能力」(千葉、51歳男性)という肯定派もいた。
対する「忖度していない派」。「考えたこともないし、必要だとも思わない」「相手の求めることなど解らなくて当然」という声は、のべ400人以上にのぼった。忖度の必要性を感じずに生きてきた「日本人」も大勢いるのだ。
「子どもの頃から忖度ができなかった。人は互いに忖度して生きていると知って、まねしようとしたが、どうしてもできなかった。今でもできない。人の言うことは文字通りにしか理解できない。言われないことはわからない。無理に推測しようとすると、とんでもない間違いをしてしまう」(東京、52歳女性)。こう自らの半生を語る人に、なおも忖度を求める人がいたら、それこそ「思いやり」に欠けるというものだろう。
島根の男性(67)は、中間管理職となった45歳ごろ、忖度という言葉を知った。「上司の言葉を待つ前に、もっと自分から動いて、と言われたが、自分は自分。出来の良い上司は忖度なんて求めない。出来の悪いのに限ってそれとなく求めてくる」
忖度できる人、できない人、する気のない人、見当違いの人・・・・。「忖度まんじゅう」のご当地(大阪)風に言うなら、「色々いてて、ええんちゃいますか」。