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2014.08.27更新

売らぬ
 貸さぬ 
  壊さぬ

停止後も18年管理、片倉工業

 「売らない、貸さない、壊さない」。世界遺産登録が決まった富岡製糸場(群馬県富岡市)。この3原則掲げ、操業停止後も日本の産業近代化を象徴する建物を守った私企業がある。「やっと安住の地ができる」。関係者は静かに喜びをかみしめた。
 製糸場を最後に経営した片倉工業(東京都中央区)。竹内彰雄社長(65)は「一番幸せで、最後の形になった」と喜ぶ。
 142年前に操業を始めた富岡製糸場を1939年に引継ぎ、50年近く製糸生産を続けた。工場を閉じた後も、日本の産業近代化の歴史を伝える遺産として建物を守り抜くことが社としての責任であり、「十字架だった」という。
 87年3月5日の閉所式では、当時の柳沢晴夫社長(故人)がこう語った。
 「単なる遺物とか見世物としておくつもりはございません」。歴史的、文化的価値が高く貴重な建物が確実に守られ、創業以来の工場関係者の思いが受け継がれていく形が固まるまで、自社で徹底した維持管理を続ける決意の表明だった。
88年、「文化財に」と打診した広木康二・元富岡市長(85)は「柳沢元社長は、誰にも売りません・貸しません・壊しもしません、と言い切った」と述懐する。片倉工業は閉所後18年間、5万平方メートルの敷地にある建物を守り続けた。
 2003年、当時の小寺弘之・群馬県知事(故人)が富岡製糸場を核に世界遺産登録をめざす、と発表した。柳沢元社長は直前に亡くなっていたが片倉工業は「世界遺産なら」と決断。富岡市の打診を受け、05年、市に建物を無償譲渡した。
 譲渡業務を担当した富岡晴紀常務監査役(62)は1975年入社で、初任地が富岡工場だった。「教科書に載っているあの製糸場だ。まだ動いているんだ」。着任日の驚きと感動は、今も忘れられない。
 操業停止後は、富岡工場管理事務所に社員3人が常駐した。維持管理費は年8千万円前後。1億円かかった年もあった。「富岡工場は特別だから出費は当たり前。そんな雰囲気が社内にありました。企業は利益を出してなんぼですが、金では買えないものがある。青臭いかもしれませんが」
 最後の管理事務所長だった田部井弘さん(71)は柳沢元社長の口癖を思い起こす。「きっちりとな。きっちりと」。工場で顔を合わせるたびに念を押された。火事が一番、怖かった。
 「すみません、では済まされないですから」。枯れ葉が積もれば火の気に気をもみ、隠れて喫煙していた来訪者を怒鳴り飛ばした。
 05年9月30日が勤務の最終日。正門や東繭倉庫などの鍵を箱に戻し、一覧表を市の担当者に渡した。「ああ終わった。何もなくて本当に良かった」。あのときは一抹の寂しさがあったが、、地元テレビの中継で世界遺産に決まった瞬間を見届けると、別の思いで胸がいっぱいになった。「世界の宝と認められた。これからは世界に守られていく」

投稿者: 松村税務会計事務所

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